「親鸞」「宮本武蔵」「大地の子」

hibi2tiyo2007-09-03

上腕過使用症候群による右腕痛のため、まめまめしく稼動せず
1週間読書三昧。腕良好。読んだ本は、再読で「大地の子」上・中・下巻
最初読んだのは16年前。毎日毎日本だけ読んで過ごしたのは高校生の夏休み以来。
そのころ、家では父が月刊誌「改造」とゆう名の本を毎月購入していた。
それを、夏休みにまとめて何冊も読み、他、家にあった本で、はっきり覚えているのは
親鸞」と、「宮本武蔵吉川英治著。この2冊は面白くて、ご飯食べるのも上の空で
一気に読みとうした。「親鸞」は、おとぎ話のような読後感を覚えたのを
思い出す。2冊とも、凄く大作だった。当然、夏休みの勉強なんかしなかったね。
親鸞の布教は、ひたすら「南無阿弥陀仏」と念ぜよ。念ずれば
死後、阿弥陀仏の浄土たる極楽に往く。且つ、阿弥陀仏と同じ仏に生まれ変わる
ことが出来ると。ひたすら行脚し、大衆に布教の日々を重ねる人で、まるで
別世界の事々を読んでいるが如きであった。「宮本武蔵」はスッゴク面白かった。



大地の子」の再読後感は、満州開拓団が日本の国策により中国に渡り
日本国家の思惑と策により、中国とロシアの国境方面に扇状に配置され、
国境では、関東軍が堅固な前衛部隊を布陣し万全な守りと、信じさせられ、
お国のためと大いなる希望を抱いて開拓。
敗戦後、関東軍に置き去りにされ、引き揚げ途中、侵入してきたロシア軍により
悲惨な目に遇い、沢山の子供達が孤児になり、尚且、文化大革命のときは
非情な迫害を受け続けた子供達です。日本国は、この子供達を国交断絶中とはいえ
戦後30年余放置したままだったのです



東洋のパリとも形容された大都会、満州国大連で生まれ、育ち、終戦の時は
小学1年生だった自分でさえ、終戦後はロシア兵の(ロスケと呼称していた)
侵入におびえ、中学生ぐらいから上の女の人は、殆ど頭は丸坊主にし
男性の服装をしていた姿を見るにつけ、ただならぬ恐怖感と緊張と
身辺の危険で通学中止が引き揚げの日まで(昭和22年1月)続いたのです。
周辺の中国人たちは友好的だったような気がする。
後々、母の説明によると、周辺の中国の顔見知りのおもだった人たちに、
「引き揚げる時は、家財道具、他、全てを貴方達に上げるので、他の者たちが
略奪しないよう頼む」と、片言の中国語で頼んだ。と言っていました。
母は、大連女子商業卒業後、大連税関に勤務していたので、多少中国語が話せた。
中国人の店での買い物も、それなりに不自由はなかった。
満州を引き揚げるまでの1年半の間、忘れられない危険な出来事が2度ありました。
その時の息づかい、周囲の細微な情景、胸が詰まってしまいそうな恐怖感
幼い弟達の顔が、今でも前後の関連無く、頭をよぎる時がある。



大地の子」を再読する時、写真↑の地球儀を見い見い読んだ。
細部が書かれてないので、近々中国の地図を買ってきて確認したいと思う。