雨漏り・小輪パンジー・衆議院予算委・天木直人さんのメルマガ

hibi2tiyo2010-02-12

連日です。
(IT is rain of the day after day.)
ここ数日間連続的な雨と曇天続き。
↓は去年8月から樹脂粘土教室での課題の小輪パンジー
3鉢に植えこみました。
綺麗で、とてもかわいい。

↑右の鉢は知人の手作り鉢です。湯呑み、又はビールジョッキとして作られたものです。

↑鉢は亡き母の遺品の茶道具。何に使ってたのか分からない。
多分お湯注しかな?なんて思ったり。こんなのが数個ある。
お湯注しにしては小さいので、今一、使用不明で…それともけんすいかな?
けんすいも数個あるけど、けん水は茶席での茶殻とお湯捨てでそこそこ大きいし・・・
母が生きてたら訊きたいことたくさんあるけど、この茶器の使い方もそのうちの一つ。

後ろの屏風も茶道具で「春日屏風」と箱に書いてある。
4枚仕立ての屏風。4枚共、螺鈿で花鳥が埋め込まれてて綺麗。
なおしこんでてもしょうがないので、時々鑑賞してる。


・・・先週末、1日中雨の日、ジグソーパズルに熱中してて気がついた。
連続してポットンポットンと水が落ちるような音・・
何だろうと、3ヶ所の水道の蛇口確認したりしてたら、ありゃりゃ〜〜〜!洗面所の天井で音が!
よくよく見たら、雨漏りらしき大きなしみが天井一面に。
座敷、居間の天井も同じく!!
びっくり仰天して工務店に電話して来て貰い調べてもらったら屋根からの雨漏りとのこと。
しかも、昨日今日のことではないですよ!とのことで2度びっくり。
自宅の界隈、去年の7月の大雨大風の後、屋根瓦の雨漏りが多数発生してる・・・・
とのことで去年の年末迄、その修理で大忙しだったとのこと。
去年の大雨、大風の時は実家にいたし、雨の時は偶然何時も実家にいたので
全然気がつかなかった。
・・・で屋根修繕を依頼した。
とにもかくにも、一時的に応急処置をしてもらい雨漏りはストップした。
継続して本格的な修繕に入る予定だったけど、連日雨で延期に。
今月末から本格的な屋根全面の修理に入る。


てなことで、連日雨を幸いに、連日1000ピースのジグソーパズルを前に悪戦苦闘。
1日4時間ジグソーとニラメッコしてたら、目も頭も体もガタガタ・・・・
1000ピースなんて「毎日サンデー」の身でしか出来んばい・・・とつくづく思う。
合間合間に、上記のパンジーを飾ってる部屋にパンジーを見に行き、
にっこりにっこり楽しんでる今日この頃。



本日衆議院予算委の放映があってた。
午前中は鳩山、小沢さんの金関係の追及ばかり。
予算委だろうが、バカタレが・・ジグソーパズルしながらつくづく救いようのない日本を
憂えた。日本もいよいよ劣等国
巷では、仕事も家も金もなく、路頭に迷う日本人がわんさかと、この寒空の下に居るっていうのに!
あきあきして、さて午後の放映に・・・・ばかばかしいと思いながらもやっぱ、監視せんといかん!
とまたまたジグソーしながら見るとはなしに見てたら、与謝野(自民党)野党議員が発言。
鳩山由紀夫さんがお母様に、子分たちにお金を渡さないといけないので援助を頼んだ」・・・と
しかも邦夫さんにお母様が「お兄さんはそのように言ってるけど、貴方はそのような子分は
いないのか」とおっしゃったとのこと・・・・
以上の事柄を、鳩山邦夫野党議員から聞いた、と、もごもご声で鳩山首相を追及してた。
邦夫さんも邦夫さんだけど、
与謝野自民党議員!品性下劣!
これを以って、自民党も最後のあがきのとどの詰まりで地に落ちた、と、思うことしきり。
自分にとって自民党の再生はあり得ない。他も推して知るべしTHE ENDの党です。
ついでに、平野官房長官にも鳩山由紀夫さん1000万円渡したそうな・・・
このことも、与謝野さんがバラシテタ。
平野さんも平野さんだね!ホントもう。平野さんにはあいた口ふさがらないこと多々ありき。
アホなのか利口なのかさっぱりわからん。



1月31日の天木直人さんのメルマガに下記のことが。
解ってるようで解らない、解らないようで解ってる
ズウッ〜〜〜ト長年もやもやもやもやしてたことを天木さんが解り易く、書いてくれてます。
保存版のメルマガです
長文ですが、ゆっくりじっくり時間かけて繰り返し読んでます。貴重なメルマガです。


天木直人さんのメルマガの転写です。
さらば日米同盟の執筆について読者から期待と熱望の声が寄せられました

 その期待に応えるべく早速執筆を始めました。

 以下書き終えたものから順次メルマガ号外で配信しますのでご助言、提言を
期待します。

 ゴールにたどり着けるかどうかわかりませんが思いを同じくする読者とともに
完成させたいと思っています。




「さらば日米同盟」(1)

第1章 戦後の日米関係を考える

1. なぜ私は日米同盟に反対する書を世に出す事にしたのか

この本を書いている時点では普天間基地移設問題がどのような形で解決しているか予測
がつきません。

しかし、普天間基地移設問題をめぐって繰り広げられた与野党間の議論ではっきりした事は、
たとえ政権交代が行われたとしても、日米同盟を重視するということに変わりはないという
事です。

それどころか護憲を訴える社民党も、普天間基地沖縄県外移設や住民負担軽減、環境問題
配慮は強く主張しても、日米同盟を容認し、民主党連立政権として対米従属政策を受け
入れるようになりました。

いまや日本の政治の中では、唯一日本共産党だけが日米同盟に反対するだけです。

しかし日本共産党がいくら日米同盟に反対し、在日米軍の撤廃を訴えても、それは左翼
イデオロギーの主張に過ぎないと一蹴されて、広く国民の間に広まる事はありません。

このような日米同盟是認の政治状況とともに、日本のメディアからも日米同盟反対の論調は
なくなりました。

学者、有識者の中にも、日米同盟に正面から異を唱える人は極めて少なくなりました。

そのような空気の中で、国民の多くもまた日米同盟を受け入れるようになりました。

しかし本当に日米同盟は日本にとって有益なものでしょうか。

その事を我々は十分に認識した上で是認しているのでしょうか。

国民の多くが、日米同盟の本質を知った上でなおそれを正しいと考えて選ぶのであれば、
それは日本の選択です。

しかし、日米同盟の実態と米国の意図を正しく知れば、多くの国民が考えを改めるに違い
ないと私は確信しています。

なぜならば、これからの日米同盟は、プラスよりもマイナスのほうがはるかに大きいと考え
られるからです。

日本の国民がこれからの、日米同盟の正体を正しく認識し、その誤りに気づき、そして日米
同盟から日本を自立させるようになる、その事を期待して私はこの書を書くことにしました。

2.なぜ日本はこれほどまでに対米従属なのか

鳩山民主党政権の対米外交の基本は「対等な日米同盟」を重視することだというものです。

この言葉は大きな自己矛盾の言葉ですが、その事については章をあらためて論じることに
します。

ここで指摘した事は、なぜ鳩山民主党は「対等」であるという事をわざわざ言わなければ
ならないのでしょうか。

それはもちろん自民党政権下の対米外交があまりにも従属的であったからです。

戦後の日米関係を考える時、それがあまりにも従属的であったがゆえに、何とかしてそれを
対等にしたい、その思いは大方の国民が程度の差こそあれ抱いている思いであります。
そして私は、外務省を去って全国を講演する時に、よく人から聞かれます。「なぜ外務省は
これほどまでに対米従属なのですか」と。

それに対し私はいつも次のように答えてきました。

「正直言ってわかりません。少なくとも私が外務省に入った1969年の時には対米従属は
与件のようなものでした。日米関係がすべてに優先され、米国の要求がどのように理不尽で
あっても、最後は米国に従う。
それを粛々と行うことが出来るものが出世する。その一方で、米国を批判し、米国に敵対的な
考えを持つ者は、たちまち外務官僚失格の烙印を押される。そういう仕組みが出来上がって
いました」、と。

もちろん外務官僚はそんな事を認めません。それどころか自分たちは米国に対して嫌というほど
「ノー」と言い続けてきた、と言うでしょう。

それは、半分は事実です。なにしろ米国は日本に対し無理難題ばかりを迫ってくる。それは、
まともな考えを持つ者なら一旦は断らざるを得ないほどの無理な要求です。
しかし、米国はそれが自らの国益に関わると考える限り要求を取り下げる事はまず
ありえません。

だから最後は日本側が譲歩してしまう。この繰り返しで戦後の日本外交は積み重ねられてきた
と言っても過言ではありません。

その譲歩が国民に対して説明できないばかりに密約を重ねたのです。

外務省の密約とはそのほとんどが米国がらみのものと考えて間違いないでしょう。

しかし考えてみれば対米従属は何も外務省に限りません。

財務省(大蔵省)も経済産業省通産省)も、どこの省庁も、程度の違いはあれ、日米関係を
悪化させるぐらいなら米国に譲歩したほうがいい、と考えるのです。
そしてそのことは政界、官界だけではありません。財界でも有識者たちも、やはり対米従属に
終始してきました。

もっといえば日本国民の大半は米国に逆らう事を好みません。

あれほど激しい戦争を行い、大空襲や原爆投下で痛めつけられた日本が、戦後は一転して米国に
従順になりました。日本占領の立役者であったマッカーサー連合国総司令官が日本を去る時
昭和天皇から国民までが涙を流して別れを惜しんだというエピソードが語り継がれているほどです。
なぜそれほど日本は米国に従順なのでしょう。
一般論としてその理由を挙げる事はそれほど難しいことではありません。
いわく、世界中で米国ほど民主的で価値観を共有できる国はない。その国との関係を最優先する
のは当然だ。

いわく、日本経済は米国を最大の市場として発展してきた。その米国との関係を重視するのは
経済的に正しい。
いわく世界最強の軍事力を持った米国に守られてきたからこそ今日の日本がある。日本の国防を
米国に委ねる以上対米従属は仕方がない。

いわく、米国も悪いところはあるがロシアにしても中国にしてももっと悪い。

など、など枚挙にいとまがありません。
あげくの果てにはアメリカの「属国」に徹しきれないから問題が起きるのだ、まだまだ従属振り
が不十分だ、などと言う意見まであらわれる始末です(長尾秀美著 日米永久同盟 光文社)。

しかし、このような一般論だけでは、これほどまでに対米従属となってしまう日本を説明する
ことは出来ません。

そこで米国CIAの情報操作や陰謀があるといった話や、あるいは政治家や官僚、オピニオン
リーダーが米国に脅かされ、あるいはアメを与えられて売国奴になってしまっている、などと
いう説が語られるのです。

それらの一部はすでに歴史的に明らかにされている史実のものもあります。

しかし、それらによって対米従属のすべて語ってしまうほど単純なものではありません。

戦後の対米従属の大きな理由として、国民は昭和天皇の果たした役割を知らなければなりません。

3.対米従属の根源を知るには国体護持にまでさかのぼる必要がある

外務省を離れて自由な身になった私は、もう一度歴史を振り返って考えてみました。

そして私なりの一つの答えを見つけました。

それは戦後の日本を形作った象徴天皇制平和憲法日米安保体制という大原則の中にこそ、
対米従属の根源があるということです。

しかもそれらの戦後体制は、決して米国から一方的に押し付けられたものではなく、昭和天皇
と当時の日本の指導者たちの利害が米国のそれと見事に一致して作られたものであったという
事実です。

つまり戦後の日本の国のあり方そのものが日米合作であった、ここに私は対米従属の真の理由
を見るのです。

それだけではありません。

戦後一貫して政権政党であった自由民主党が、実は米国の支援を受けて政権を保ち続けたと
いう事実です。

つまり自由民主党の党是こそが対米従属であったのです。

さらにまた日本最大のメディアである読売新聞社のかつての社主が米国CIAに協力して
日本国民を情報操作した。

こういう史実も米国の機密文書を読み解いて究明した学者も出てきました(有馬哲夫 著
 原発・正力・CIA 新潮新書
)。

こう考えた時、政権交代が起きたとたんに、核密約問題や普天間基地移設問題が表面化した
事は決して偶然ではないことがわかります


鳩山民主党政権が日米同盟を見直そうとしたとたん、すべてのメディアが一斉にそれを危険視
する
動きを見せたことも十分頷けます。

対米従属の根は決して単純なものではない。まず私たちはこの厳然とした事実を知る必要が
あるのです。


4.日米安保体制は戦後の国体であった

我々が最初に知らなくてはならない事は終戦当時の歴史です。その中でもとくに昭和天皇
戦争責任問題と東京裁判に関する史実を正確に知る必要があります。
>
ところが我々は昭和史については学校でまともに教わった事はありません

それは権力者による意図的な政策のなせる業なのか、それとも統一した見解を見つけるのが
難しいのか、あるいは単なる怠慢なのか、私には分かりません。

しかし、その理由がどのようなものであれ、この昭和史を正しく知らなければ、対米従属の
本当の理由もまた分からずじまいで終わってしまいます。

ところが昭和史を学ぶ時にはいくつかの困難さがあります。

たとえば昭和天皇の戦争責任について語ることはこの国ではタブー視されてきました。
しかも昭和天皇の言動に関する歴史的資料は、いまだに多くの部分が非公開です。
すから国民の多くは歴史的事実を知らないまま放置されてきました。
それでも、多くの学者や歴史家、あるいは個人が、情報公開法の成立で一部公開された機密文書
や、あるいは米国で公開された機密文書など様々な歴史的資料を読み解いて多くの貴重な
情報を我々に与えてくれています。

少しでも注意してこれらの公開情報を調べてみれば、実は驚くほど多くの事が分かってきます。
そして次のような基本的事柄は、今では国民の間でほぼ共通の認識となっています。

すなわち日独伊三国同盟を打ち破った連合国は、全体主義に厳罰で臨み、日本の軍国主義に対して
は二度とその復活を許さないと、完全な武装解除を迫りました。これがポツダム宣言です。
同時に、当時の連合国のほとんどが昭和天皇の戦争責任を追及しました。

そんな中にあって、昭和天皇と当時の日本の指導者にとっての最大の問題は国体を護持する
こと、つまり昭和天皇を守り、天皇制を残す事でした。

日本に無条件降伏を迫ったあのポツダム宣言の受諾が遅れたのは、このような国体護持の
懸念からです。

ちなみに国体護持といっても、その解釈をめぐって御前会議のメンバーでさえ意見が分かれて
いたことは驚きです。

すなわち阿南陸軍大将は万世一系天皇統治権が守られなければならないとし、他方において
東郷茂徳外相らは天皇制さえ存知できれば国体が護持できると主張したといわれています。

最終的には天皇制が残ればいいということで、その確認を待ってポツダム宣言を受け入れた
わけですが、ポツダム宣言の遅れによって沖縄地上戦や原爆投下を招いたとすれば、その
意味は深刻なものがあります。

昭和天皇の責任追及という連合国側の要求と、何としてでも天皇制を残そうとした日本側の
思惑の対立の中で、大きな役割を果たしたのが米国のマッカーサー総司令官でした。

すなわち連合国の総司令官でありながら事実上日本占領を一手に握ったマッカーサー元帥は、
日本の占領を円滑に行うために昭和天皇を通じて日本を間接統治しようとしました。

因みに、今のイラクパレスチナアフガニスタンなどでも、この間接統治が行われています。

純化して言えば、米国は憲法9条によって日本を武装解除し連合国側の要求を満たすとともに、
その一方で東京裁判において東条英機以下7名のA級戦犯に戦争責任を押し付け、昭和天皇
免責にしました。

それを裏付けるように、昭和天皇や当時の日本の指導者たちが、東京裁判を取り仕切った
キーナン判事に対し謝意を表した、という史実も指摘されています。

国民の多くは、憲法9条は押し付けられたものだ、東京裁判は勝者の一方的な裁判だ、と
思い込んで非難します。

それは一面において正しい。

しかしより重要な事は、そのいずれもが、昭和天皇を免責し、天皇制を残すためには必要な
ものであったという史実です。

そしてより重要な事は、武装解除を定めた憲法9条(第2章)も象徴天皇制(第1章)も、
そして勝者の一方的な裁判であった東京裁判も、米国から押し付けられたものであったと
同時に、国体護持のため昭和天皇と当時の指導者が望んだものであったという事です。

言い換えれば戦後の日本の体制は日米合作であったのです。私はここに戦後の日本の対米従属
の一つの大きな理由を見つけるのです。
5.日米安保体制を願い、それを決定した昭和天皇の二重外交

ここまでは多くの日本国民は知っていると思います。

しかし戦後の日本を規定したもう一つの原則、すなわち日米安保体制もまた昭和天皇
意向によってつくられていたという事を知っている国民は果たしてどれほどいるでしょうか。

少なくとも私は知りませんでした。豊下楢彦関西学院大学教授の著書を読むまでは。

これから書くことは豊下教授の二つの著書、「安保条約の成立」(岩波新書)と「昭和天皇
マッカーサー会見」(岩波現代文庫)の二つ、および「占領下も『君主』であり続けた
昭和天皇」(河西秀哉著、新潮45 09年9月号)に従って述べていくことにします。

 まず私が驚いたのは、昭和天皇マッカーサー総司令官と二人だけで何度も会って外交的な
話をしていたという史実です。
 我々は新憲法の下では天皇は国民統合の象徴であり、一切の政治的、外交的活動から中立で
あると聞かされてきました。

 最近においては、中国の習近平国家副主席の天皇会見特例問題が騒がれましたが、あの時の
問題の一つが天皇を政治的に利用する事は許されない、というものでした。

それというのも、戦前の反省に立って日本国憲法においては天皇は政治的に関与しない、
という原則があるからです。

ところが昭和天皇は、1945年9月の第一回会見以降、1951年4月にマッカーサー
総司令官が日本を離れるまでの間、合計11回、マッカーサー総司令官と通訳をはさんだ二人
だけの会見を行っていたのです。

しかも1947年5月に新憲法が施行され、象徴天皇になったはずの昭和天皇が、何度も
マッカーサー総司令官と会見を重ね日米関係について話をしていたのです。

しかもその会見内容が深刻な意味を持っていたのです。

この昭和天皇マッカーサー会見録は、ながらく国民には知らされてこなかったのですが、
情報公開法の成立にともない、やっと2002年に初めてその第一回会見録が外務省から
公開されました。

しかし、それでもなお多くの会見録がいまだ未公開のままになっています。

そのような制約の中で、豊下教授は、公開された米国の機密文書や日本側の公開資料を丹念
に読み解いて、安保条約成立過程における昭和天皇の二重外交の事実を突き止めました。

豊下教授の指摘の中で一番重要なところは戦後の日米関係を規定した日米安保条約の締結を
一番強く望んだのは昭和天皇であったということです。
吉田茂首相以下当時の外務官僚たちは日米安保条約締結交渉の過程で、少しでも日本にとって
有利で対等な条約にしようと必死で交渉していました。

特に冷戦が始まって、極東における共産主義との戦いの中での日本の戦略的な役割が高まった
のを見た当時の外務官僚は、これで日米安保条約交渉は「五分と五分」だ、という考えを
持ったといいます。

私の同僚である今の外務官僚の幹部には当時の外交官の二世が何人かいます。駐米大使
藤崎一郎大使もその一人です。

しかもその父親の藤崎万里氏は吉田茂首相の下で安保条約交渉に携わった外務官僚の
一人です。

父親が占領下の制約された状況下で少しでも対等な日米関係を作ろうと交渉していた。

その史実を知ってかしらずか、それから半世紀以上もたった今、その息子である外交官が
ここまで対米従属に甘んじているとは歴史の皮肉です。

そのような吉田茂と外務官僚の日米安保条約交渉を前にして、昭和天皇が吉田首相に対し、
何をもたもたしているのか、早く日米安保条約を締結せよ、と命じたというのです。

豊下教授は、これは自分の推測だと断った上で慎重にそう主張しているのですが、その後の
更なる資料の発見や研究によって、豊下教授の推論はほぼ間違いない事実であるとされて
います。

なぜ昭和天皇日米安保条約の締結を急いだのでしょう。それは共産主義の脅威が昭和天皇
を脅かしたからです。

すでに述べたように昭和天皇天皇制についての最初の危機は、連合国側による昭和天皇
の戦争責任の追及でした。

そしてそれはマッカーサーの米国によって免責とされ、危機を乗り切ることができました。

しかしそれと前後して、もう一つの脅威、すなわち共産主義の脅威が昭和天皇天皇制を
襲いました。

実際のところ共産主義に対する昭和天皇の恐怖は相当なものがあったようです。

おりしも日本はゼネストなどに見られるように世の中が騒然としていた頃です。
昭和天皇マッカーサー総司令官に対し、日本を共産主義の脅威から守って欲しい、
その役割を在日米軍にお願いしたい、という趣旨の要請をしていたというのです。

そしてこの要請に応えることは米国の思惑と見事に一致します。

すなわち米国は日本の占領政策を、軍国主義の根絶と日本の民主化を進めるという大原則
から出発したのですが、中国に共産主義政権が成立し(1949年)、朝鮮戦争が起き
(1950年)、文字通り冷戦が本格化した事を見て、その占領政策を180度転換します。
俗に言われる占領政策の「逆コース」です。

こう考えていくと私たちはあらためて気づくことになります。

戦後の日本の体制を決めた日米安保条約締結の背景には、実は吉田茂の外交を上回った昭和
天皇の二重外交があった、これです。

この昭和天皇の外交こそ対米従属的な日米安保条約をもたらしたと言えるのです。

この史実を裏付ける史実は枚挙にいとまがありません。

たとえば吉田茂首相はサンフランシスコ講和条約を締結する全権代表を最後まで拒んだ
と言われています。
日本にとって極めて温情的であり、有利であったサンフランシスコ講和条約は、日本外交
の成果であったはずです。吉田茂首相がそれに不満であったはずはありません。

それなのになぜ吉田茂首相はサンフランシスコ行きを嫌がったのでしょうか。

それは講和条約と同時に結ばれる事になっていた日米安保条約が、吉田にとって決して
好ましいものではなかったからだと言われています。

この事はその後の様々な資料によって明らかにされています。たとえば吉田首相はその締結
にはサンフランシスコ講和会議に同行したほかの代表を伴うことなく一人で署名に臨みました。

責任は自分ひとりで負う、という事です。

また、日米安保条約を結んだ事について、吉田は、後で非難されるかもしれないが、当時の
選択としては正しかった、それをあらためて、対等な日米関係を作るのは後世の政治家の
つとめだ、などと述べていたとも言われています。

このような歴史的事実を知る事により、我々は戦後の対米従属の原因が日米安保条約
あること、そしてそのような対米従属的な安保条約を望み、作ったのは他でもない昭和
天皇その人であったことを正しく認識しなければなりません。

この事は、しかし、ほとんどと言っていいほど有識者の間で語られる事はありません。

それはやはり日本人にとっては認めたくない史実であるからです。
日本国と国民の統合の象徴である昭和天皇が、自らの命ほしさに米軍によって守って
もらおうとした、そのような事実を認める事は、日本国民としてしのびがたい事である
からだと私は思うのです。

自らの命欲しさのために、あれほど昭和天皇に忠誠を尽くした東条英機首相を見捨て、
あしざまに言ってA級戦犯に押しつけてしまった。そんな事はあってはならないこと
なのです。

豊下教授はいみじくもこう言っています。これほど重要な歴史的事実を国民に示す役割
を私一人に任されている、それは極めて居心地の悪い事である、と。

実際のところ豊下教授の研究成果は、その重要さとは裏腹に、一般的に注目され、評価
されることにはなっていません。

これほど多くの政治学者が日本にいるのに、天皇陛下の二重外交を正面から取り上げた
政治学者は豊下教授のほかには全くと言っていいほど現れません。

メディアもまたそれを大きく取り上げることはありません。
日本には昭和天皇の二重外交や日米関係が形成された史実は今でも大きなタブーがあるか
のごとくです。

しかしこのタブーを克服しない限り対米従属の真の理由は判らないままに放置される事に
なると思います。

6.自民党の党是としての対米従属政策

なぜ日本はこれほどまでに対米従属だったのか。この事を考えるためには昭和天皇の果たした
役割と同時に、もう一つの大きな理由、すなわち戦後の日本の政治を一貫して動かしてきた
自由民主党の党是そのものが対米従属であった事を知らなければなりません。

 ちなみに今度の政権交代に際してよく指摘される意見の中に、自民党の存在意義は冷戦の
終結とともに終わっていた、というのがあります。

すなわち冷戦の終焉とともに反共という大きな目的を失った自民党が、それに代わる存在理由
を見つけられなかった。その怠慢が今度の惨敗につながった、という指摘です。
 もちろん先の総選挙の自民党の敗北はそれだけではありません。立て続けに起きた首相の
政権投げ出しや、国民生活を救う事の出来ない無策に国民が愛想を尽かしたということです。

しかしそのような直接的な理由とは別に、自民党の存在そのものが冷戦下の米国の国益を追求
するものであったこと、従ってまた冷戦の終結とともに一つの役割が終わった、という指摘は
一面の真理をついています。

 そもそも戦後の日本の体制を考えた時、全面講和か部分講和かの選択は国論を二分する
一大政治論争でありました。

 そのようなイデオロギー論争の中で、日本の共産主義化を防ぎ、日本を自由主義陣営に
組み入れようとしたのが米国でした。

 すなわち、日本を実質的に占領した米国が、ソ連共産主義との戦いが表面化した時点において、
連合国の占領軍から、反共の戦いのための駐留米軍になし崩し的に切り替わったのです。

そしてその米国の反共政策を忠実に実施すべく、A級戦犯容疑で巣鴨の刑務所に拘留されていた
岸信介氏を無罪釈放し、その岸氏が後に日本の総理になって日米安保条約を改定し、今日の
日米安保体制を築く役割を果たしたのです。
このような米国と日本の自由民主党とのつながりについて、決定的な証言をしている著作が
最近発表されました。

それはピューリッツアー賞を受賞した事のあるニューヨークタイムズ紙の辣腕記者である
ティム・ワイナー氏が書いた「CIA秘録」(講談社)という本です。

その中でワイナー氏は自由民主党が米国CIAから金銭を授受してまで政権にとどまった
事を明らかにしています。

ワイナー氏は、日本は米国が軍事力を使うことなく支配する事にした最初の成功例であると
まで言っているのです。

この言葉がすべてを物語っています。

つまり対米従属は自民党の党是であった訳です。

そしてその自民党を日本国民は今回の政権交代が起きる前までの半世紀もの間、支え続けて
きたということなのです。
7.鳩山民主党政権の下で対米従属関係は変わるのか

 このように考えてみれば日本の対米従属の根は深い事がわかります。

 しかし同時にまた、自民党政権から民主党政権に交替した今こそ、これまでの日本では
ほとんど与件として当然視されてきた対米従属から脱却し、自主、自立の日本を取り戻す
歴史的チャンスが、今日本に訪れているのかもしれない、ということに気づかされます。

日米同盟の是非を見直すチャンスは日本の政治で政権交代が起きたということだけでは
ありません。国際情勢の大きな変化があります。

冷戦下において共産主義との世界的対立から生まれた安保体制が冷戦後にその意義を
失った事はすでに指摘した通りです。

しかしその後の20年は国際情勢をさらに大きく変化させました。

特に2003年のイラク戦争以降の米国の力は軍事的にも経済的にも急速にかげりが見え
てきました。

それと同時に中国やインド、ブラジルといった新興国の力が台頭して来ました。

オバマ大統領があらゆる演説で繰り返しているように、もはや米国は世界の諸問題に一国で
は対処しきれなくなっています。各国との協力無くしては自国の国益さえ守る事が出来なく
なりつつあります。

今後とも、世界の政治、経済に影響を与える国の数は増え、世界をとりまく諸問題も、
多くの国々の協力無くしては解決困難な時代に入りつつあります。

この流れはもはやもとに戻る事はないでしょう。

そういう中にあって、今までどおり、ただ米国の言う事に従い、米国に追従していればいい
という考えは、誰が考えてもおかしいでしょう。

新しい政権とともに、あたらしい外交、安全保障政策を考える時が来たのです。

果たして鳩山民主党政権にそのような外交・安全保障政策が期待できるでしょうか。

この事については次章以下で論じて行きたいと思います。


以上です。