天木直人さんのブログの引用からとけた私の謎。他私的諸々

hibi2tiyo2012-03-17

2012年3月17日土曜日
Suturday(Sat.),March、(Mar.)17,2012)
3週間ぶりの記録です。
この間なんだかんだと私事がありました。
叔母(亡父の直ぐ下の妹)の四十九日忌に筑豊まで行ったこと。
当方が小中高生のころ住んでた筑豊の地域を歩きまわったこと。
孫の男の子が国立k工業大学にパスしたこと。
間を縫ってGG、英会話、ウクレレ教室、歯医者(定期ケア)、
内科(肝臓、胆のう、胃の定期検査)、銀行、郵便局に行ったり、
青物食料品の買出し、春の花の苗の買い出しに行ったり、挙句は近所のマダムに誘われて散歩につきあったり・・・アッそうそうパスポートセンターに
パスポートの申請に行ったり(^−^)と。それなりに忙中閑有りではありました。閑の時はただぼおっ〜っとしてるだけで。何故かって、
前回のブログで書いた天木直人さん、のブログから引用した米ソの密約により
ソ連が、東欧のウラン鉱を確保するためにも『米国主導の日本管理との取引を承認した』のだ。ソ連核兵器保有のために、ルーマニアブルガリアを支配することが優先され、日本占領の運命はアメリカの手に渡る・・・・
を初めて知って凄く驚きなんだかぼんやりする気分が続いたのです。
・・当方は幼少のころ(戦後昭和22年1月)中国大連から引き揚げてきたのですが、終戦後から今日までずうううっと無意識のうちに常に
疑問符が頭の中を占領してたのです。
というのは、昭和20年8月15日無条件降伏で敗戦したにもかかわらず、即座にソ連兵(ロスケと大人たちは言っていた)が大連に侵入してきたからです・・で女の人や、若い娘さん達は丸坊主、男の服を着たりして身を守ったりしてました。若い女の人がソ連兵にさらわれたという
話が巷で話されてました。満鉄社宅2階に住んでいた我が家にも2度ロスケ{一人}が這入ってきました。1度目は父がいたときで、父は自分の腕時計をはずして渡し、かろうじて追い返し、2度目は父がいない時で、母(25歳で美人ダッタ)は私と弟二人(3歳、1歳)に
「子供には何もしないから」と言い聞かせて、2階の窓に父の着物の黒帯を結びそれを伝って階下に降り、かろうじて逃げおおせました。
私は弟二人をかばい、部屋の隅でじっとしゃがんでました。軍靴のまま一人のロスケが部屋に入ってきて子供達3人をジイッ〜〜と見てましたが、間もなく出て行ったのだと思います。
何も盗っては行かなかったのだと思います。恐怖で記憶がないのです。
下から見上げた私の目とロスケの目が出会った時のその瞬間が今だに
昨日のことのようにありありと目に浮かびます。
兎に角大きくて白くて赤くて鼻が高い顔のソ連兵でした。黄土色の軍服とその赤白い(今にして思えばピンクなのかも)顔の色は今でもクッキリと焼きついてます。ピンクという言葉を当時は知らなかった。
それにしてもその時、涙一滴流さなかった自分の気丈夫さと、全く
泣きわめかなかった弟達の辛抱と忍耐の心持ちを思うとき、繰り返し
鬼気迫り、感きわまる感情が去来します。
後、母は子供を3人残して逃げたことを、父が怒ったと何かのおりに
私に言いました・・が、それは両方とも正しかったとずっと思い続けてます。御蔭で全員長らえたのですから。
・・・で横道にそれましたが、この様にソ連が一時侵略してきたのに
何故アメリカが日本を占領したのかという疑問が幼い時から????
だったのです。・で分からないので原爆を落としたのがアメリカだったからアメリカに占領されたと単純に思ってました。永遠の謎が解けて
しばし虚無状態でした。正しく天木直人さんが言われたように、
これを驚かざるして何を驚くかということですよね。再度皆様におかれましても
当ブログの3月4日後半の、天木直人さんのブログの引用を再度お読みになられたら、じっとりと油汗・冷汗が胸の中から出てくるはずですよ
小中高時代に暮らした場所の写真を沢山写してきてますが、長くなりましたので、後日UPします。
☟は3月に入って、亡母の遺品の雛祭り用の煎茶道具を出して、道具を楽しみながら毎日煎茶を飲んでます。
でも、この道具もそろそろ棚入りですね。月日は流れる川のごとしです。





雛の小さな衝立は母作成のちぎり絵のつい立てです。
茶卓は銅?か錫?かのどちらかで出来てます。
おはぎは、赤米と黒米でできたものです。
この時期しかありませんからとお菓子屋さんに勧められて
一つづつ買いました。歯触り独特で美味しかった。です。
あっ!そうそう。追伸 福岡市は本日春一番が吹いたそうです。
そういえば、外に出てもなんとなく生温かかった。